後期アユタヤ王朝

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アユタヤ王朝の歴史(2)


古代アユタヤ後期アユタヤ王朝

 ビルマの属国だったアユタヤをもとの独立国に戻したのが、マハータン・マラーチャー王の息子、ナレースアン王(在位1590〜1605年)でした。

 ナレースアンはピッサヌロークへ進軍してきたビルマ軍に人質として連れてゆかれて、ビルマのバインナウン王の養子とされます。その後ピッサヌロークへ帰国がゆるされ、ピッサヌロークの領主になります。

 1581年にビルマのバインナウン王が死ぬと、ビルマの勢いがなくなったことを知り、1584年にナレースアンはアユタヤの独立を宣言します。この宣言によりアユタヤは15年間のビルマの属国としての地位から開放され後期アユタヤ王朝が始まりました。

 勢いがなくなったといえ、ビルマはアユタヤを取り返そうと、1585年から1593年にかけて軍勢を送り込みますが、戦の上手なナレースアン王はすべての戦いで勝利し、ビルマ軍にアユタヤ軍の痛烈な印象を与えることに成功します。そしてその後100年間ビルマはアユタヤに進行することが出来ませんでした。

 ナレースアン王はその後も領土拡大の戦を各方面に仕掛けて、北部のランナー王国、東のラオス、カンボジア、南はマレー半島のソンクラーまで、領土を拡大することに成功しました。


◆山田長政

 この頃のインドシナ半島は、海のシルクロードと呼ばれるヨーロッパから中国、日本を結ぶ貿易の中継地点として栄え、アユタヤの都も沢山の外国の船や商人でにぎわいました。

 チャオプラヤ川のほとりには、中国、ベトナム、日本、ポルトガルなどの街が並んでいました。日本人町には、豊臣秀吉の南蛮貿易で日本とインドシナを行き交う商人が軒を並べていました。山田長政はそうした商人の中の一人です。

 山田長政は、もともと沼津藩の人夫でしたが、1612年ごろ東南アジアと交易をする朱印船に乗船し、アユタヤへ渡り、そこでアユタヤの特産品を日本に向けて輸出する商売で成功し、財産を築きました。

 アユタヤ朝ではソンタム王(在位1611〜1628年)の時代になります。山田長政は日本人の義勇兵の隊長に就任すると、ソンタム王の信認を得てアユタヤ宮廷の官位を賜ります。日本人の義勇兵は強く、また山田長政の商売のネットワークも幅広く、アユタヤにとって重宝したため、ソンタム王は彼を重用し、宮廷の最高の官位を与えました。アユタヤ式の名前もオークヤー・セーナーピムックという名を国王より賜ります。

 アユタヤの誰でも彼の名前を知るほどに名声を得た長政でしたが、ソンタム王の死後、政争に巻き込まれてゆきます。

 ソンタム王の死後、彼の息子であるチェーターティラート王子を、プラサートーンという男が後ろ盾となり王位につかせます。プラサートーンはこの実績によって、宮廷の高い地位を手に入れますが、その後チェーターティラート王とプラサートーンは仲違いを起こし、最後にはプラサートーンは国王を殺害してしまいます。

 その後プラサートーンは、チェーターティラート王の弟アーティッタヤウォンを王位につけるのですが、ひと月でアーティッタヤウォン王を追放し、自ら王位につきました。

 ここで、アユタヤは初代のウートン王でもなく、2代のバグア王でもなく、スコータイの王家の血筋でもないプラサートーンが国王になりました。アユタヤ朝が他の王朝と違い独特な歴史を持つのは、次々と王家の血筋が入れ替わりながら続いてゆくことにあります。

 ともあれ、ソンタム王に可愛がられた山田長政ですが、新しいプラサートーン王を支持します。

 しかしながら、新王プラサートーンは心のそれほど広い国王ではなかったようです。長政をアユタヤから追放し、その後計略をもって1630年に長政を毒殺してしまいました。
 山田長政の死後ほどなく江戸幕府は鎖国を行い、日本人町はアユタヤから消えてなくなりました。


◆交易で栄えるアユタヤ

 プラサートーン王(在位1629〜1656年)はそれまでの王家の出身ではないため、今まで中央で権力を握っていた役人たちの力を削ぐために、権力の分散化をすすめました。

 また、対外的にはオランダの東インド会社と手を結び、日本との交易を行ないました。日本の鎖国時代にあたり、長崎の出島に出入りするオランダ船が、それまでの朱印船貿易にとってかわったのです。

 プラサートーン王の息子のナーラーイ王(在位1656〜1688年)の時代には、ビルマの属国になっていたランナー王国に軍を出して、アユタヤの支配下にすることに成功します。そのために、インド洋側のメルギーなどの港も手に入れることができ、交易による収益が拡大しました。

 またナーラーイ王は都をアユタヤの北ロッブリーに移しました。ロッブリーは前期アユタヤの始まりに深く関係する町で、もともとクメール帝国の影響下にあった場所です。

 ナーラーイ王は交易を拡大するにつれてオランダとの摩擦がおこります。オランダはアジアでの貿易の独占を画策していたために、ナーラーイ王の王室独占貿易と利害がぶつかるようになったのです。そこで、ナーラーイ王はフランスと手を組むことにします。フランスに使節団を送るなどして、対等な通商関係を結ぼうと考えたのですが、逆にフランスは交易上の特権やバンコクの割譲など求めてきました。

 フランスの横暴な態度にアユタヤでは反フランスの勢力が出来上がり、スパンブリーの出身で象部隊の隊長であったペートラーチャーがナーラーイ王を倒しクーデター起こします。王の側近を追放し、国王が病死すると、自ら王位を奪い、国王に就任します。そしてバンコクに駐留していたフランス軍を兵糧攻めでた退去させることに成功します。フランスとの関係をすべて断ち切ったペートラーチャーは、オランダとの関係のみ継続させています。

 このクーデターでアユタヤの新しい王家が誕生し、ペートラーチャー国王(在位1688〜1703年)が新たにアユタヤを統治しました。

 ペートラーチャー王はクーデターで政権を握ったので国内に対立勢力がありましたが、養子のプラチャオ・スア王(在位1703〜1709年)に無事政権を渡すことが出来ています。これ以降アユタヤ朝の最後までこの王家は続くことになります。

 ヨーロッパとの交易は、17世紀末にコショウの大暴落がヨーロッパで起こり、以降は次第に下火になってゆきます。代わって中国商人が交易の舞台に台頭してきます。

 アユタヤ王朝はターイサ王(在位1709〜1733年)ポーロマコート王(在位1733〜1758年)と比較的順調に推移しましたが、ポーロマコート王の死後、ウトゥムポーン王子とエーカタット王子の跡目争いが発生します。

 ウトゥムポーン王子が国王の位を先に継ぎますが、ほんの10日でエーカタット王子に国王の位を奪われてしまいました。エーカタット王(在位1758〜1767年)の時代はおよそ10年続きましたが、アユタヤ王朝の勢いは日に日に弱体化してゆきました。

 アユタヤの勢力が弱まるのに対して、隣国ビルマの勢いが増してゆき、ビルマのコンバウン王朝シンビューシン王の時代に、アユタヤへ軍を進めとうとうアユタヤを包囲してしまいます。

 アユタヤをビルマの属国にする和平提案をエーカタット王はビルマ軍に出しましたが、シンビューシン王はこれをはねつけ、無条件降伏を迫りました。結局最後1767年4月ビルマ軍はアユタヤへ突入し、アユタヤは壊滅してしまいました。

 前回のビルマの侵略では、アユタヤはビルマの属国になり王朝の崩壊は免れましたが、今回は完全に壊滅させられました。そして400年以上続いたアユタヤ朝はこの時をもって終焉となります。

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