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ペドロとイネスの悲劇
ドン・ペドロ1世はポルトガルの王子。当時の王ドン・アフォンソ4世と女王ビアトリシュ・カステラとの間に
生まれたポルトガルの国の世継ぎでした。
父のアフォンソ4世は思慮深く落ち着いた王でしたが、息子の
ペドロ王子は気性が激しく攻撃的で神経質、思いこんだら命がけと
言う極めて極端な性格の持ち主でした。
父王はペドロがまだ幼いうちにドナ・コンスタンサ・マノエルとの
結婚を決めてしまいます。コンスタンサは隣国カステラの貴
族でたくさんの村や城を所有する大地主の娘であり、このような
政略結婚は当時はよくあることでした。
ペドロ王子が成長し結婚にふさわしい年齢になると、コンスタンサとの
婚礼が盛大にとり行われました。コンスタンサはカステラ、レアオン、
アラガオンと言う旧スペインの国々の王の親戚だったので、
これら強国と政治的に繋がりを持つと言う意味合いでこの結婚は
とても重要なものでした。
しかしながら、王子は彼自身の気持ちを全く無視したこの縁組みに
とても不満でした。
結婚するのは王子そのものであるのに、何も聞いて貰えず、
何を言うことも出来ず、結婚させられたのです。
抵抗したくとも、どうしようもなかったのです。
こんな政略結婚でしたから、妻を迎えたのちもこの極端な性格の
王子は妻をまったく愛さず、常に妻から距離を置いていました。
ペドロ王子は日々を狩猟を楽しんで過ごし、決して家庭に目を
向けようとはしませんでした。
そんなある日のことです。ペドロ王子は一人の美しい娘に出会い、
その目は釘付けになりました。
それはコンスタンサの侍女としてコンスタンサと共にポルトガルに
やって来たイネス。
極上の愛のように美しい姿、太陽のように輝く金髪、たまらなく
優雅なものごしに、ペドロ王子は今だかつて感じたことの
ない狂おしく熱い思いに包まれ、たちまち恋に落ちてしまいました。
「わたしには妻がいる。しかし、本当に愛しているのは君だけだ。
君がいなければ、わたしは生きていけない。どうか、わたしの
ものになっておくれ。」
ペドロ王子が奥様の侍女と恋に落ちた!
このスキャンダルはたちまち皆に知れ渡りました。
妻コンスタンサはものすごいショックを受け、何とかしてこの夫の
心をイネスから遠ざけることは出来ないかと考えぬき、考えぬき、
そして閃きました。
コンスタンサは当時ペドロの子供を身ごもっていたのですが、その
お腹の中の子供の洗礼儀式上の保護母(madrinha)をイネスにしようと
思ったのです。当時この保護母、と言うのはその子供の両親の
兄弟であると教会では見なされておりました。
つまりイネスを保護母にしてしまえば、彼女はペドロの妹になると
言うことになります。ペドロ王子とイネスが愛し合えば近親相姦の罪を
犯すことになってしまうのです。
このような関係は教会で堅く禁じられていたので、コンスタンサは
これでもうイネスとペドロ王子の熱愛に終止符を打てるものと思って
いました。
しかし、ペドロ王子のイネスに対する愛はとても深く強く、保護母で
あろうとなかろうと、イネスへの思いはまったく変わりませんでした。
この許されないスキャンダラスな恋愛は、もはや宮廷中の注目を浴び、
噂の的でした。
更に悪いことに、コンスタンサの赤ちゃんは生まれるには生まれたの
ですが、たったの一週間で死んでしまいました。この当時、生まれたての
赤ちゃんが亡くなってしまうと言うのは極めてよくあることだったのですが、
「イネスのせいで死んだのだ」
と言う噂がたちまち宮廷中に広まりました。人々は口々に言いました。
「きっと、洗礼儀式の時に、ちゃんと言うべき聖なる言葉を言わなかったの
だ。」
「保護母になりたくないがために、洗礼儀式を怠ったのだ。」
「イネスが殺したようなものだ。」
この事態を重く見たアフォンソ4世は、このままではいけないと、
息子の愛人イネスを国外に強制追放することを決めました。
でも、この遠距離は2人にとって何ら障害とはなりませんでした。
なぜならば第三者を介して連絡を取り続けたからです。
「イネス、君を愛している。わたしには君しかいないんだ。
君にいやな思いをさせてすまない。わたしにもう少し力があれば・・・・。」
「ペドロ、ペドロ。私もあなたを愛しています。誰が私たちを分かとうとも、
私は決してあなたのもとを離れません・・・・。 ずっと、ずっと。」
1345年。
ペドロの子供が生まれようとするその時、コンスタンサは余りの難産に
苦しみぬいていました。
「わたしの、愛する王子の子を産まなくては。わたしの、愛する・・・・。」
しかし、そのお産は並大抵の痛みではなく、コンスタンサは難産の末、
とうとう死んでしまいました。
自分がどんなに愛しても決して自分を愛することの無かった夫に
深い悲しみを抱きながら、世継ぎの王子である赤ちゃんを残して・・・。
コンスタンサが亡くなるや否や、ペドロ王子はすぐさまイネスを迎えに
行きました。不毛な結婚に縛られていたのが、妻の死により自由に解き
放たれたのです。
「イネス、長いことすまなかった。これでわたしは自由になった。君を
迎えに来たよ。一緒に暮らそう。」
「ずっと、ずっと信じてお待ちしておりました・・・・・。」
ペドロは愛するイネスをポルトガルに連れ帰り、パソ・ダ・セラの近くの
モレドの別荘に住まわせました。
そこは彼が普段からよく時を過ごすお気に入りの土地でありました。
それから2人はとても幸せな日々を過ごしました。
愛を語らい、寄り添い、お互いを見つめ合う毎日です。
モレドの別荘にいる間、3人の子供が生まれました。
アフォンソ、ジョアン、ディニスの3人。その長男であるアフォンソは
父王の怒りを静めるために同じ名をつけたのですが、まだ小さいうちに
死んでしまいました。二人は大変悲しみ、黄泉の国に旅だった我が子を
思いながら、それでも親子で仲良くモレドの宮殿で暮らし続けました。
しかしながら、周りの人々はこの恋愛を疎い、口々に噂し、この
スペインの血の流れる娘に憎悪の目を向けました。
このとても美しい女はよその国の権力ある貴族である男の私生児で
あり、彼女の父も兄弟もポルトガルに対する並々ならぬ興味を隠して
いなかったためです。国を乗っ取られることを恐れる人々は口々に
イネスのことを悪く言いました。国のためだけでなく、女たちはその
美貌をやっかみ、男たちは自分たちに一瞥もくれないとやっかみ、
噂はとどまるところを知りません。
「美人だと思っていい気になってるんだよ。」
「王子も大変な性悪女にたぶらかされたものだ。」
一方、ポルトガル国王アフォンソ4世もペドロ王子がイネスとの間に
もうけた子供達の存在に懸念していました。
近い将来、ポルトガル国内の平和をかき乱すことになるのではないかと。
このころいわゆる黒死病で死ぬ者が出始め、人々は恐怖におののきました。
そして、この恐ろしい病気はイネスのせいだと口々に言い始めました。
黒死病ばかりではありません。あちこちで火事がおき、災害が起こり、
そのため不作が続くなど悪いことが次々と起こりました。
人々は飢えに苦しみ、職にもつけず、泥棒が蔓延しました。
また、1337年から始まったフランスとイギリスの100年戦争のため、ポルトガル
は
直接はかかわらなかったものの、兵士を送り出しました。それのみならず、
ポルトガル国内の王や王子達の間で戦争がいくつか起こり、この戦いでたくさん
の
人々が死んで行きました・・・・。
これら全ての悪い出来事はイネスのせいだと言われました。
ペドロ王子はこの状況を憂い、イネスを連れてポルトの郊外のカニデロに移り、
彼女が心配なく快適に暮らせるように気遣い、環境を整えました。
ここでは、更に女の子ビアトリシュが誕生しました。
2人の愛はますます深まるばかりです。
しかし、彼らが強く愛し合えば愛し合うほど、このスキャンダルに対する
非難は高まって行きました。アフォンソ4世の取り巻きたちはペドロ王子が
イネスの兄弟達に毒されている、彼らが親しくなるのは危険だと吹聴します。
アフォンソ4世は日毎に心配を増して行き、またイネスの父や兄弟である
カストロ家に不信感を募らせて行きました。
その後、2人の恋人達はポルトを離れ、コインブラのサンタ・クララ修道院
近くの別荘に住まいを移しました。しかしここでも人々は2人を受け入れず、
この不貞の愛を貫こうとする2人に悪意を持ちました。
でも2人にとって一番大切なのは2人の愛。
決してくじけることはありませんでした。
王室の中で高い地位にある者達はカストロ家の影響や権力を恐れ、
ことある毎に王に「唯一の解決方法は、イネスを殺すことだ。」
と主張し続けました。
取り巻きであるペドロ・コエーリョ、アルヴァロ・ゴンサルヴェス、そして
ディオゴ・ロペス・パシェコはカストロ家がいかに危険であるかを強く示唆し、
イネスの兄弟であるカストロ家の者たちがペドロ王子に何かを吹き込んでいる、
ペドロ王子が王に即位の際はポルトガルは大変なことになるであろう、
特に正式な世継ぎの者である、ペドロ王子とコンスタンサの息子の
フェルナンド王子が心配だと常に話しあいました。
そして1355年の1月始め、モンテモール・オ・ヴェーリョにいるイネスの
殺害計画をし、王の承認を得に行きました。
編史家たちは、この王がポルトガルへの危惧と自分の息子とその
家族への情の狭間で大変悩んだと述べています。悩みに悩んだ末、とうとう
ポルトガルへの危惧を選択しました。
アフォンソ4世は武装した人々とコインブラに向かいました。
妻のいる王を誘惑した、不貞の女の喉をかき切るために。
その時ペドロ王子は狩りに出かけておりました。イネスの胸の中
にはは何か正体の分からない不安がもくもくと広がり、いても立っても
いられない気持ちでした。この不安は一体なんだろう。
何かが起きる、とてつもない悲劇が起こる気がする・・・・鼓動が早く打ち、
息苦しく、恐ろしい・・・・。子供達をそばに呼び抱きしめます。
ああ、愛するあなた、早く、早く帰って来て。私のこの不安を取り除いて・・・。
しかし悲劇はやってきました。
ペドロ王子の父アフォンソ4世と、その取り巻き達が宮殿の中に突然入って
来ました。取り巻き達の手に手に刀剣が握られています。
瞬時に自分を殺しに来たのだと悟ったイネスは、必死で頼みました。
「お願いです。ご慈悲を。どうか殺さないで。助けて下さい!」
イネスの必死の懇願にもかかわらず、悲劇は起こりました。
王は目の前にいる、か弱いイネスと可哀想な自分の孫たちの泣き声にひるみ
ためらいました。が、イネスは結局3人の男たちの手で無惨にも殺されて
しまいました。
イネスはペドロ王子を深く愛したが為に殺されたのです。
*コインブラのキンタ・ダ・ラグリマス(涙の館)には2つの泉が
あり、「愛の泉」はペドロ王子とイネスの密会したところ、そして
「涙の泉」はイネスが喉をかき切られ、流した涙で出来たと言われ
ています。
イネスを殺した後、イネスの亡骸はサンタ・クララ教会に運ばれ
そこに埋められました。1355年1月7日のことです。
これで悲劇は終わったはずでした。
この残酷非道な仕打ちに、ペドロ王子は激昂しました。
すぐさま父である王に対して軍隊を起こし、殺されたイネスの
家族達や信頼ある部下と共に北上し、父の軍隊と戦おうとしました。
そして、母ビアトリシュの説得により納得し父王と和解したものの、
その内心ではイネスを殺されたことを赦す積もりは微塵もありませ
んでした。
1357年、年老いた父王が亡くなり、王子が遂に王座に上る時が
来ました。そして即位するなり、カステロの国に逃亡している、
愛する者を殺した愚か者達をあらゆる手を使って探し始めました。
「残酷王」ペドロはフランスに逃げてしまったロペス・パシェコは
逃したものの、ついにペドロ・コエーリョとアルヴァロ・ゴンサルヴェスの
2人は捕らえることが出来ました。
2人はサンタレンにいる王のところに連行されました。
かねてからの切望と復讐を果たすため、まず王はペドロ・コエーリョの
心臓を生きたまま胸からえぐり出すこと、同じくアルヴァロ・
ゴンサルヴェスの心臓を背中からえぐり出すことを命じました。
彼らは地位の高い貴族でありましたが、こう取り扱われることで
名誉もなにもなく犬死にをすることになりました。
しかし王はこれだけでは満足せず、
「玉葱とビネガーを持ってこい。
このコエーリョ(ウサギ)にぶっかけてやる。」と言い、それからその
憎むべき者たちの心臓をかみ砕いたと言う伝説があります。
この残虐極まりない場面が本当であるならば、王の極端に凶暴な性
格をよく表しているものと言えるでしょう。
(注:コエーリョはポルトガルにはよくある名前ですが、ウサギと言う
意味の単語でもあります)
また一方で、王ペドロはとても美しい柩を作らせました。あれほど妻に
迎えたかった愛するイネスの亡骸を安置するため、死後の今になって
尚、周りに妻と認めさせて葬るための柩を。
1361年4月2日、イネス・デ・カステロの遺骸はコインブラのサンタ・クララ
修道院からアルコバサのサンタ・マリア修道院に移されました。
ここに、編史家がこの時代のかなり後に記した、この亡骸移動についての
記述をご紹介します。
「王ペドロは純白の石に美しく豪華な細工を施した記念像を作らせた。
記念像は柩の蓋部分に位置し、女王となるべきだった美しいイネスが
王冠をかぶり横たわっている。この記念像はアルコバサのサンタ・マリア修道院に
設置されたが、歴代の王の眠る入り口部分ではなく、教会において
最も神聖なる場所である、教会奥の小聖堂の近くに安置された。
この亡骸をコインブラのサンタ・クララ修道院から移動する時には、
故人に出来得る限り名誉を授けるべく手を尽くした。たくさんの馬と
貴族、貴婦人、聖職者達が葬列を成し、その行く道の先々には何千人
もの男達が手に手に蝋燭の灯を絶やさず待ち受けていた。
このようにして85kmの道のりを経てアルコバサのサンタ・マリア修道院に到着したが、
このような大変誉れある葬列は、ポルトガルにはかつて見られたことの
ないものであった。」
アルコバサのサンタ・マリア修道院
また、伝説によりますと、王はイネスの屍を王座に座らせ、真の
女王のみがかぶることが出来ると言う王冠をその頭に乗せました。
そして、従者や貴族の者たちに忠誠を誓わせるため、腐敗し半ば
落ちた屍肉の残る、死せる女王の手にキスをさせました。
王ペドロは、1360年7月12日に福音書に誓って「実は7年前にブラガンサに
おいて、イネスを正式な妻として娶った。」と宣言しておりました。
つまり、1353年に二人は既に夫婦になっていたことになります。
イネスが死して後のその時でも、事実に基づき、女王として相応しい敬意を
払わせるため、このような行動を取ったのだと言われています。
ペドロ王は、自分が愛してやまなかったイネスにこのようにして最高級の
名誉を授けました。そして、それから政治や経済を取り仕切るように
なりましたが、そのやり方は大変正義的でありました。
政治には素晴らしい才覚がありましたが、時としてとても残酷な逆鱗を
示しました。しかしながら、人民はこの残酷な王をとても尊敬し愛しました。
愛するイネスの最期を思い宮廷で眠れぬ夜、鼓舞隊を呼び、トーチに灯をつけ、
踊りながら街を行進させたこともしばしばでした。
人々は眠さにクラクラしながらも、一緒に歌い踊り、歓喜の叫び声をあげ、
寂しい王を慰め、喜びを分かち合いました。
彼は人民に正義を示し、そしてまた祭りを起こし、人々に食料を与えました。
パン、肉、それまでなかった施し・・・・世の中はみるみる平和になって行きまし
た。
彼の統治の時代は飢餓もなく黒死病もなく・・・もはや戦争も起きませんでした。
1366年の終わり、カステラ国とアラガオン国との友好関係を樹立させ、
王ペドロはポルトガルに平和をもたらします。この最後の素晴らしい業績の
後、1367年1月に王ペドロはその生涯を閉じました。
死せる前日に記した遺書には、彼の死後その亡骸をアルコバサに移送すること、
そして1360年に安置したイネス・デ・カステロと共にそこに葬るよう命を下しま
した。
死して尚、イネスの傍らに。
その死の後、人々は「王が統治下さったこの10年間は、ポルトガルにはそれまで
かつてない素晴らしい時代だった。」と泣きながら言ったそうです。
愛し合う2人は、天に召されてやっと、何の障害もなく一つになれたことでしょ
う。
これがポルトガルでとても有名な、ペドロとイネスのロマンスのお話です。
イネスの柩