ポルトガル・リスボンの生活 くりの家



メニュー
   
HOME ビバ!幼稚園 語学学校に行こう EH PA!ポルトガルサッカー!
ダンナギャラリー こんなポルトガル語 ポルトガルのお話 暮らし色々
ポルトガルの迷信 ポルトガル料理レシピ ここが美味しい!レストランわたしのオススメ
ポルトガル国内観光 Link ポルトガル基本情報 自己紹介

聖ヴィンセントのカラスたち(リスボン)


 4世紀はキリスト教の時代でした。イベリア半島は大ローマ帝国の

属州であり、その統治者は残忍な独裁者ダシアノ。彼はキリスト教

徒を冷酷に迫害しました。

 その頃、ヴィンセントという神父がスペインのヴァレンシアに

住んでおりました。彼は敬虔なキリスト教徒であったことから、

生涯の間長期にわたる迫害に耐え苦しむこととなったのです。

ダシアノはローマ兵士に命令し拷問に拷問を重ね、聖ヴィンセントは

悲しい最期を遂げました。

 これに飽き足らなかったのか、更にダシアノは彼のその屍を

ハゲ鷲の群に投げ込むよう命令しました。しかし、ヴィンセントが

その生涯世話をし食べ物を与え育てていたカラスの一群が、彼の体を

猛禽の攻撃から身を呈して守ったのです。

 その翌日、家来がこの奇妙な現象をダシアノに語ったところ、

ダシアノは激怒。聖ヴィンセントの首に風車小屋の粉ひき石を

くくりつけて海に投げ込むよう命令しました。

 しかし、また今いちど、カラスたちが現れて彼の肉体を救ったの

です。そのくちばしで海岸まで、すごい力で引っ張りあげました。

そこに、ヴィンセント神父の弟子がちょうどやってきて、その屍を

丁寧に洗って、密かに埋葬致しました。

 

 暫く経って、コンスタンティノ帝の時代に、キリスト教がローマ

帝国における公的な宗教であると認められ、ヴァレンシアの人民が

聖ヴィンセントを守護者であると選定し、彼が埋葬されたその地に

小聖堂を建立しました。

8世紀になると、モーロ人たちが北アフリカからジブラルタル

海峡を渡ってやって来て、半島を侵略。教会や聖堂の数々を破壊

しました。そう、もちろん聖ヴィンセントの小聖堂をもです。

キリスト教徒たちは聖人の聖遺物を守るために、聖遺物を発掘して、

半島最南西にある岬に海を越えて運びました。そこが、今で言う

アルガルヴェです。

 

 カラスたちは決して聖人の屍のある場所から離れようとしません

でした。船で運ばれる時もいつも見守っており、キリスト教徒

たちがその肉体を運ぶその新しい地にも常に同行致しました。

 時が経ち、カラスたちは増殖してものすごい数になりました。

ゆえにその岬は「カラス岬」として知られるようになります。

またそこには、小さな聖堂が建てられたのですが、少し経って再び

モーロ人によって破壊されてしまいました。

しかしながら、聖遺物は継続して岩の下に埋葬されたままでした

ので、カラスたちは引き続きその場にとどまり、決してその場所を

離れませんでした。

 12世紀、ポルトガルの最初の王、アフォンソエンリケが新しい

王朝をうちたてるための戦いの時、ひとつ誓いを立てました。

もしもオーリックの戦いでモーロ人を倒したならば、聖人の名誉を

たたえてリスボンに教会を建設すると。

 

 何年か経ち、モーロ人がその戦いやその他のいろいろな戦いに

敗北すると、アフォンソエンリケは約束を実行しました。

聖ヴィンセントの教会をリスボンに建立し、

彼が「リスボンの守護者である」と宣言したのです。

 ポルトガル人が捕らえたうちの一部は、ヴァレンシア出身の

モサラベの人たちでした。これらモサラベの人たちはキリスト教に

改宗したモーロ人でしたので、モーロ人とも、またキリスト教徒

たちとも繋がりがありました。よって、彼らはどこに聖人の

聖遺物があるかをよく知っておりました。

 アフォンソエンリケ王がどのようにしてでも聖人の聖遺物の

ありかを突き止めたいということをよく知っていたので、彼らは自分

たちの自由と引き替えに王にその場所がどこなのかを知らせました。

その場所をみつけるのには雑作ない、

なぜならば聖人の眠るその場所にはカラスたちが宿っているからだと。

 

 それを知り嬉しく思った王は、騎士団を連れてアルガルヴェに

すぐさま向かいました。しかし、馬は騒々しくいななき、と騎士団は

王の登場に合わせ高らかにトランペットを鳴らしたのです。

その音におびえたカラスたちは、それまで宿っていた聖人のそばから

全て飛び立ち、空に大きな輪を作って飛ぶのみでした。よって、

あれほど発見を望まれた聖人の居場所は分からなかったのです。

 激怒して、王はリスボンに戻りモサラベ人たちを召喚するよう

命じました。

「私に嘘を申したな! お前たちの命でこの罪を償って貰うぞ!」

王は怒鳴りつけました。「カラス達はいたにはいたが、尊い聖遺物の

ありかなど、まったく示しもしなかったぞ!」

 モサラベ人たちは、しかし聖遺物がそこにあるということを確信

していたので、この脅しに動じませんでした。

「陛下、その聖なる岬に一人で、

 しかも靴を脱いでそっと近づかれましたか。」

「そんなことするはずもない!」王はきっぱりと言い切ります。

「この世の中のどこに、そのように登場する君主がいるものか!」

「それならば、陛下、他の者を使いに出すべきでございますよ。

 どうです、私たちが行きましょうか。他に適任の者がいると

 お思いですか。私たちは ヴァレンシアの出身です。

 聖ヴィンセントは私どもの守護者であるも同様。もし陛下が

 私どもを信じて下さるのならば、確実に聖遺物をこちらにお持ち

 致しましょう。」

 アフォンソエンリケ王は彼らの言うことを信じ、うまく事が

運べば彼らを解放する約束をしました。海を渡るにあたり、王は

小さな帆船を彼らに用意致しました。

 カラス岬に到着した時、モサラベ人たちは難なく探し求めていた

場所を見つけることが出来ました。カラスたちが動じずにその場を

守り続けており、モサラベの囚人たちが靴を脱いでそうっと

近づいたため、怯えることも飛び立つこともなかったのです。

 小さな船に発見した聖遺物をのせた後、モサラベ人たちは海に

向かいました。もちろん、カラスたちも船のあらゆる場所 − 

帆、マストの先、船上の通り道などにずらりととまって、ついて

行ったのです。

 

 テージョ川の河口に辿り着きリスボン港に向かう時、たくさんの

人々が川べりにはりついて、このカラスの圧巻なるショーを見つめ、

驚き、噂しました。この船が聖ヴィンセントの聖遺物を運んでいる

ことを知り、以来カラスたちは「ヴィンセントたち」と呼ばれる

ようになりました。ポルトガルの語彙においてヴィンセントという

名は「カラス」という意味となったのです。

 サンタ・ジュスタ教会(1755年に大地震により倒壊)に

「聖遺物」を納めるため、モサラベ人たちはマルティン・モニシュ

まで川をのぼり続けました。その頃は、テージョ川は市南部の

部分(現在のバイシャ)を通っていたからです。

 

 リスボン大聖堂と聖ヴィンセント教会の司祭たちは彼らが船から

降りてくるのを待っておりました。その二人のどちらも聖遺物は

彼らのそれぞれの教会にふさわしいと思っていました。しかし、

聖遺物を受け取ろうとすると、モサラベ人たちはサンタ・ジュスタ

教会がその納めるべき正当な場所であると叫び、抵抗しました。

 「一体何なのだ!」聖ヴィンセント教会の司祭は叫びました。

「それでは、この限りなく価値ある聖遺物を、わけのわからない

 教会に納めると言うのか!聖ヴィンセント教会こそその納める

 場所としての権利がある! 聖ヴィンセントという名の教会を、

 その名がありながらからっぽにしておく積もりか!」

「聖ヴィンセント教会にだって? それはおかしい!」大聖堂の

司祭は叫びました。

「このような尊い聖遺物は、リスボン大聖堂に納めるべきだ!」

議論はすぐさま大混乱となりました。そこで、コインブラに使者を

送り、王に会い、この討論を早急に解決するようにお願いしました。

 

 アフォンソエンリケ王はすぐさま馬を走らせ、リスボンに向かい

ました。馬の交換の時以外は全く止まることなくコインブラから

走り続けたのです。

そして、こう宣言しました。

「まず、最初に我々の守護者の聖骨が長いこと眠っていた

 『カラス岬』を『聖ヴィンセントの岬』と命名する。

 聖遺物については、とてもその価値は計り知れない。

 これはリスボンでは最も重要な教会に納めるべきである。

 よって、リスボン大聖堂に納めるべし!」

 

 このようにして論争は解決。

聖ヴィンセントの聖遺物は無事にリスボン大聖堂に納められました。

今でも一年に一度、1月22日に、リスボン大聖堂にてその

聖遺物を見ることが出来ます。小さな銀の骨壺の中に納められ、

ガラスの蓋がついているので中を見ることが出来るのでした。

 それから、聖ヴィンセントはリスボンの聖なる守護者となり、

その象徴となったのです。一艘の船と、2羽のカラスは市の紋章と

なり、誰もが首都の石畳の上や電灯などにその紋章を見ることが

出来ます。

そして今でもリスボン大聖堂には、聖ヴィンセントをお守りする

ためにカラスたちがいるのです。


←戻るポルトガルのお話次へ→